シャマランのけじめと祈り『ノック 終末の訪問者』感想(ネタバレあり)


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『ノック 終末の訪問者』あらすじ
同性カップルのアンドリュー(ベン・オルドリッジ)とエリック(ジョナサン・グロフ)、養女のウェン(クリステン・ツイ)の一家が山小屋で休暇を過ごしていると、レナード(デイヴ・バウティスタ)、サブリナ(ニキ・アムカ=バード)、エイドリアン(アビー・クイン)、レドモンド(ルパート・グリント)の4人組が訪ねてくる。訪問者たちは山小屋に押し入り「家族のうち1人を犠牲に選ぶか、全人類の滅亡を選ぶか」という究極の2択を突きつける。
 
 
以下の文章は『ノック 終末の訪問者』『オールド』『ミスター・ガラス』の結末部分に触れています。
 

陰謀論とシャマラン

スーパーパワーを持つ人間とその力を抑え込もうとする組織の存在が明らかにされ世界に衝撃を与えるという『ミスター・ガラス』のラストはいかにも陰謀論的だった。そもそも、M・ナイト・シャマラン作品で繰り返し語られている「自分の使命に気づく」「世界の違うありように気づく」というストーリーは、陰謀論者のよく言う「目覚め」と近い感触がある。
しかしながら「陰謀論」がかつてわずかに持っていた魅力的な響きを失い、社会にとって有害でしかないものになってしまって以降、シャマランは自作に存在する陰謀論的傾向をどう取り扱うかについて苦慮していたように思う。
『サーヴァント ターナー家の子守』では身近な人が妄執に取り憑かれたときの戸惑いが描かれていたし、前作『オールド』では陳腐すぎるネタばらしをする事で陰謀論のにおいを取り去ろうとしていたように思える。
それらの作品を経て製作された最新作『ノック 終末の訪問者』は、陰謀論的思考と自作で描かれている信念はある点において決定的に異なっている、あるいは「異なったものにしていかなければならない」ということを宣言する、シャマランにとってのケジメのような作品だった。
 

明るいヴィジョン・暗いヴィジョン

アンドリューがエリックを両親に紹介するが、両親はそれを受け入れられないという回想が第一幕と第二幕の間に挿入される。このシーンの背景ではアレサ・フランクリンが歌う「Ac-Cent-Tchu-Ate the Positive*1」が流れている。この曲の歌詞は以下の通りだ。

You got to ac-cent-tchu-ate the positive
E-lim-i-nate the negative
Latch on to the affirmative
Don't mess with Mister In-Between
You got to spread joy up to the maximum
Bring gloom down to the minimum
Have faith or pandemonium
Liable to walk upon the scene
To illustrate my last remark
Jonah in the whale and Noah in the ark
What did they do, just when everything seemed so dark?

詳細な和訳は各自ググっていただくとして、ざっくり訳すと「ポジティブになれ ネガティブになるな 中途半端もだめだ 喜びを最大に 悲しみを最小に 信念を持て 暗闇の中でヨナやノアが何をしたのか」という内容で、シャマランが自らを「eternal optimist on steroids (極度の楽天家)」と表現していることを踏まえると、この歌詞がこの映画の内容をそのまま表しているように思えてくる。
現在進行形で謎の4人組に襲撃を受けているし、回想で描かれる記憶も苦々しいもの*2でポジティブでいられるかよという感じではあるが、ポジティブに考えること、明るいヴィジョンを信じることが陰謀論とシャマランの決定的に異なる部分ということなのではないだろうか。
 
レナードら訪問者たちは世界の崩壊とそれを防ぐ残忍な方法のヴィジョンに取り憑かれている。繰り返し表れるそれに戸惑いながらも、「人類を守るために従わなければならない」とも確信している。
その一方で脳震盪を起こしたエリックは光の中に何か(figure)を見る。エリックが何を見たのかは作中で明確に描写されず、まるで映写機を覗き込んだようなわざとらしい光が画面上に表れるだけであるが、そのヴィジョンが自分を犠牲にするという最後の決断につながる。
そして、エリックは自身を犠牲にすることをアンドリューに納得させるため、ウェンとアンドリューが幸せに暮らしている様子を伝える。その明るいヴィジョンによって「永遠の暗闇」と表現された人類の終焉は防がれる。暗いヴィジョンの実現を阻止するのは明るいヴィジョンなのである。
 
ここで、なぜエリックが自分の命を犠牲にしなければならなかったのか、正直ストーリー上は不明瞭ではあるが「明るいヴィジョンを他者に託すことができるのはエリックだけだったから」と考えることができる。アンドリューはその短気な性格や過去の経験から事象を悪い方向に捉え怒りに駆られやすい。ウェンも、両親と良好な関係を築いているし、作中では明確に描かれていないものの、産みの親から捨てられたことや育ての親から口唇裂を治されたことで生まれ持った自分を否定されたような経験をしている。そのような経験に引っ張られることなく、常に他者への優しさを示せる人物がエリックであったということではないだろうか。

〜ここから拡大解釈〜
1秒24コマのフィルムを明滅させることで暗い部分を脳が勝手にスキップし、映像が立ち表れるというのが映画の仕組みだ*3。つまり、事象の明るい部分だけを見るというのは映画のことも指しているのかもしれない。前作の『オールド』において、家族とともにあることと映画人としてあることは相容れない存在として描かれていた。そして、最終的には家族とともにあることがより良いものとして選択されていた。それは今までのシャマラン作品とは全く異なるメッセージであった。しかしながら今作において、(上記の拡大解釈を適用するのであれば)映画という明るいヴィジョンを信じ世界を守ることと、家族を想うことは同時に達成できることであると見ることができる。
〜拡大解釈終わり〜 
 

シャマランのけじめと祈り

以上のように、陰謀論的な思考との違いを明示してはいるが、暗いヴィジョンに取り憑かれた人たちを突き放しているわけではない。レナードは、作中で流れる『Strawberry Shortcake: Berry in the Big City*4』について「共感と寛容 (empathy and tolerance) を教えてくれる」と評していたが、それは本作についても言えるのではないかと思う。物語の終盤でエリックは訪問者たちの行動について「彼らにも守りたいものがあったんだろう」と共感を示す。これは、ヘイトクラムの被害者となった後、ボクシングを始め、拳銃を購入したアンドリューの行動に対しても重なる部分がある。
明確に描写されない部分多い本作で、特に解釈が分かれているであろうラストシーンについても同様だ。かつて自分に暴力を振ったレドモンドの車の中でアンドリューは訪問者たちの人生の痕跡を見る。その後カーステレオを点けるとかつてエリックとともに歌った「Boogie shoes」が流れ出す。これは、自分にとって一番受け入れがたい存在も自分と同様に悲しみや喜びの中で生き、同じ音楽を聞く人間であるということを表しているのではないだろうか (もちろん、エリックからの「Always together」のメッセージでもある)。
 
明るいヴィジョンに従って行動すべきであるという違いを明確にした上で、このような共感と寛容を示すのがとてもシャマランらしいけじめの付け方であるし、ウェンとアンドリューが戸惑いながらも前を向いて進んでいくこのラストシーンがこの上なく美しいと思った。
しかしながら、暴力をもって自己の使命を叶えようとする存在に対して共感と寛容だけで現実問題どうにかできるのかというと、それはラストに流れるBoogie shoesと同じくらい場違いで空々しく聞こえるかもしれない。シャマランが本作に関するインタビューで「自分は楽天的である」ということを繰り返し述べているのも、様々な問題を抱えた現実を踏まえた上での「それでも前向きでいなければならない」というある種の自己暗示、あるいは祈りの言葉のようでもある。
かつてのシャマランであれば、このようなテーマでもっと誇大妄想的な救いを描いていた可能性もあるのではないかと思う。何が真実かを見極めるのが難しいのに、常に選択を迫られる、しかもその選択が誰かを傷つける可能性がある、という非常に困難な現実を見つめた上で、それでも世界がより良くなることを望むシャマランの選択を私も信じたいと思った。

knock-movie.jp

*1:Aretha Franklin - Ac-Cent-Tchu-Ate the Positive (Audio) - YouTube

*2:7時間かけてやってきた母親がやっと口を開いたと思ったら冷蔵庫を褒めただけという地獄!

*3:この仕組みは最近だと『エンパイア・オブ・ライト』や『フェーブルマンズ』で人生の比喩として使われていましたね、みんな大好きですね

*4:原作だとこれは『スティーブン・ユニバース』だったんですけど、さすがにそのままだとちょっと古いとかなんですかね