この感情は誰のもの『PITY ある不幸な男』


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映画『PITY/ある不幸な男』公式サイト

今自分が抱いている感情に対して、自分が本当にそう思っているのか、それともその感情を抱くことを他者から要請されているからそう思っているのかがわからなくなった経験はあるだろうか。

PITYの主人公の1日は、事故により昏睡中の妻のことを想い嗚咽することから始まる。周囲の人はそんな主人公を気遣い同情し、ケーキを差し入れたり、優しい言葉をかけたりする。しかし、主人公にとってある意味で夢のような時間は、妻が目を覚ましたことで終わりを迎える。
もちろん、妻が目を覚まして主人公一家は幸せに暮らしましためでたしめでたしで物語は終わらない。ちやほやされることに耐性のない中年男性にとって、周囲からの優しさや同情、いたわりはあまりにも中毒性が強く、「優しくされる」「かわいそうな自分」を手放すことができず、徐々に精神のバランスを失っていく。
 
主人公の精神を混乱に陥れていくのは、感情・身体・自我の分裂あるいは混同である。
悲しいから涙が出るのか、涙が出るから悲しみを認識するのか、そもそも私は悲しいのか、悲しまなければいけないから悲しいのか、悲しいはずなのになぜ食欲があるのか、悲しいはずなのになぜ白髪が増えないのか、涙が出なくなった私はもう悲しくないのか、悲しくない自分が優しくされないのであれば自分には価値がないのではないのだろうか。
この映画で描かれる主人公の行動の飛躍は著しいものではあるが、このような感覚を覚えたことがある人も多いのではないだろうか。

アンガーマネジメントというものが流行っていたりもするが、自己の生の感情をそのまま外部に表出させることは社会的に未成熟な行為であるとみなされる。
また、友人の不幸話を聞くときに笑顔ではなく悲しみの表情を浮かべるように、場が個々人に感情を要請し、それにそぐわない態度は反社会的であるとみなされることがある。
なにが言いたいかというと、この社会の成員になろうとする過程で感情や思考、身体の表出をバラバラにするスキルを会得する必要があるということである。全員が自分の感情をそのままうまくコントロールする術を身につけることができればいいのだろうが、そうはいかず、自分の感情を押さえ込むことしかできなかったり、社会から除け者にされるという悲劇が起こったりする。
タイトルで言われている「不幸」とは家族の病気のような事象のことではなく、自己の感情に対する感度を下げ続けた結果、感情を受け止めコントロールする術を失った状態のことなのではないだろうか。
そんな悲劇を、露悪的になりすぎないシニカルで冷静な視線で写したこの映画は、非常に現代的かつ普遍的な作品であると思った。
 
時折挟み込まれる字幕や突然大音量で流れるクラシック音楽など、演出が微妙にはまりきっていない部分もあり冗長に感じる部分もあるが、選び取られたショットのシャープさ、主人公の家のインテリアに代表される美術の清潔さなど、ルックの美しさはとても魅力的で、全体的な温度の低さも非常に心地がいい。
なによりも素晴らしいのは、主人公の感情の感情が徹底的に秘匿されているところだ。ヤニス・ドラコプロス*1演じる主人公は常に口角の下がった仏頂面で表情の変化に乏しく、怒っているのか悲しんでいるのか喜んでいるのか、その表情から読み取ることが非常に難しい。唯一感情をあらわにする嗚咽のシーンでもその表情は見えないので、本当に泣いているのか、泣いたふりをしているのか、観客からは判断することができない。そのため、観客は主人公の内心を推測することしかできず、疑念を持ちながら主人公の動向を窺うことになる。
これは、サスペンスの演出として非常に有効なだけでなく、映像に記録された表面的な振る舞いから他者の思考を判断するという、ある種暴力的な、この映画で取り扱われている悲劇と同根の行為を観客に求めるものである。そのような底意地の悪さも含めて非常に魅力的な作品だと思った。


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*1:画像検索したら普段はめちゃくちゃしぶいおじさんでビビった