『アフター・アース』というややこしい映画とそれ以上に面倒くさいM・ナイト・シャマランという映画監督について

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シャマランの話をします。

シャマランというのは「あの」シックス・センスの奇才M・ナイト・シャマラン監督のことです。

そのシャマラン監督の最新作『アフターアース』がアメリカでは5月31日、日本では6月21日に公開されました。
ウィル・スミスとジェイデン・スミス親子が7年ぶりの親子共演ということで話題となった同作ですが、アメリカでは初登場3位と興行的にも批評的にも芳しくなく。しかしイギリス、フランス、ロシア、日本、中国等々で1位を獲得し、先日めでたく制作費の1億3千万ドルと宣伝費の1億ドルをなんとか回収できたようです(多分)。
日本で公開されてからも1ヶ月以上経っており、もはや上映も終わりかけで完全に期を逃した気もしますが、この映画の制作を知ってから1年以上その情報を追い続けていた身として、あるいは1人のシャマラン狂として、どのようなことを思ったか記録しておきたいと思いこのたび筆をとりました。

ちなみに、この文章では映画としての良し悪しにはほとんど触れず、基本的にはアフターアースをもとに今までのシャマラン映画や、M・ナイト・シャマランという非常にややこしいフィルムメーカーを自分なりに解き明かしてみようという内容になりました。結果的に。



映画『アフター・アース』予告編 - YouTube



一応、まだこの映画を見ていない人の為にあらすじを説明しますと、舞台は人類が地球を離れて1000年後の宇宙。人類の英雄であるサイファ・レイジ(ウィル・スミス)とその息子のキタイ(ジェイデン・スミス)はまぁ色々あって良好な関係とは言えず、それを見かねたお母さんのはからいで一緒に遠征することになったのに航行中に宇宙船が損傷。不時着したのが実は地球で、救助を呼ぶためには100キロ先にあるビーコンを取りに行かなければならないんだけどレイジは重症だから指示を受けつつキタイが頑張るという話です。
原案ウィル・スミス、プロデューサーはウィル・スミスとその奥さんとその弟という具合なので、「手の込んだホームビデオ」とか「ジェイデン君初めてのおつかい」などと揶揄されており、まぁ実際SF的設定の整合性の無さだったり純粋に話のつまらなさだったりでそのような評も致し方なしな部分はあります。

この映画の制作に至った背景には、誕生日おめでとうの電話をかけてきたウィルに向かってシャマランが「誕生日プレゼントとかはいいから映画の企画くれよ」と言ったからという監督の現在の境遇を考えると涙なしには語れない経緯があるんですが。
とはいえ、過去作を鑑みてもアクションやVFXの方面に適正があるとはお世辞でも言えませんし、実際見てみても、十分な映像スペクタクルを提供できているとは言いがたい状態です。
なぜそのようなリスクを取ったのか、監督持ち前のポジティブさで「サインからずっとVFX使ってるし行けるっしょ!アクションだって『エアベンダー』でやったし!」となったのかもしれませんが、それよりもっと切実な、挑戦しなければならない理由があったのではないかと推測しています。

その理由を説明するためにまずはシャマラン映画の作られ方の話をしましょう。
シャマランが映画のネタを発想する方法論というのは割と単純で、それは「B級映画の内容を、A級映画のしつらえでやる」ということです。このことをシャマランはインタビューなどで繰り返し述べており、結構なこだわりというかもはや映画を作る上での大原則として偏執的なこだわりを持っているようです。

このA級とB級の良いとこ取りというやり方は、2つのバランスをうまく取ることができれば、今までに見たことがない新鮮な手触りの映画をつくりだすことできますが、少しでもそのバランスが崩れると、ただただ語り口が大仰なだけのズッコケ映画になってしまうという結構なリスクがあります。
そして、B級をA級でとは言いつつも、シャマラン作品の制作環境は一般的なハリウッド映画のものとは大きく異なっていました。
一般的な制作環境では、脚本をスクリプトドクターがリライトしたり、最終的な編集権を持っているのが監督ではなくプロデューサーだったりするのが普通なようです。
一方でシャマランは、レディ・イン・ザ・ウォーターのパンフレットによると、同作まではオリジナル作品なのはもちろんのこと、脚本も直させないしファイナルカットの権利も自分で持っていたらしく、これはハリウッドの中では特殊中の特殊と言えるものでした。
そんな制作環境が関係しているのかはわかりませんが、そのバランスは基本的にB級の方に傾いていて、特にレディ・イン・ザ・ウォーターからハプニングにかけての傾き加減はまさに沈みかけの船のようでした。
とはいえその傾きがどれだけ激しかろうが、B級方面に振られている内は全世界に一定数は居るであろうシャマラニストのみなさんに微笑みを持って迎えられるので、まぁ大丈夫といえば大丈夫なんです。
しかしその傾きっぷりに本人が危機感を覚えたのか、前作『エアベンダー』ではまるでバランスを取るかのように原作ありのVFX冒険ファンタジー大作というA級方面に極振り。原作の性質とシャマラン監督の資質が壮絶な殺し合いをした結果、さすがのシャマラニストでも苦笑いという惨状を生み出してしまいました。

そしてここから先は完全に推測なんですが、シャマラン監督は映画自体の出来が散々だったということよりも、自分がこだわり続けてきたその大原則を守れなかったという事が悔しかったんじゃないかなーと思います。
つまりは、新しい映画にとりかかるのに際して、ぱっと見ふつうのエンタメ作品だけれどもきちんとB級の要素も取り込んだシャマラン映画をやり切るということが大きな課題として設定されていたのではないかと。

そのことは(致し方がない諸般の事情があったのかもしれませんが)製作体制からも見て取ることができます。プロデューサーと原案の一家総出体制はもちろんのこと、ゲイリー・ウィッタとの共同脚本で、スクリプトドクターにはスティーブン・ギャガンという今までとは全く異なったかたちとなっています。
このような、むしろ一般的なものよりも制約が多いのではと思えるような環境が功を奏したのか、今作には少年の冒険譚らしい演出がたびたび見られます。
たとえば予告編にもある、レイジに反発してキタイが崖から飛び出し空を滑空するようなシーンとか。

こういう風に、背景と登場人物の動きを使って視覚的に心情を表現するというのはかなりベタですがこれまでのシャマラン作品にはあまりなかった要素でした。

その一方で、本作にはシャマラン的なモチーフだったり演出が随所ではさみこまれます。
ここでいう「シャマラン的演出」がどのようなものなのか、明瞭な言葉で説明するのは難しいのですが、その性質を言うとすれば「ここでそれをそんな撮り方するの!?」と思ってしまうような演出のことです。
詳しくは、そのほとんどがシャマラン的演出で構成されている『ハプニング』というすごい映画がありますので、そちらでご確認いただければと思います。

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『アフターアース』でのシャマラン演出というと、宇宙船が不時着した後キタイが目を覚まし周囲の状況を確認していシーンがあるんですが、なぜかその様子は規則的に開閉するビニール扉越しに撮られています。
このシーンを初めて映画館で見たとき、扉が閉まるたびに視界も閉ざされるその不快感と違和感に対して、正直頬が緩むのを隠しきれませんでした。
それ以外にも、ホラー的なビビらせ演出が何度もはさみこまれたり、「ゴースト」や「一斉にざわめく植物」「巨鳥」など、シャマランの過去作を連想させるようなモチーフが隙あらばねじ込まれるのですが、これらの要素が単なるファンサービスとしてではなく、このとてつもなく平坦なストーリーの中で、妙な引っ掛かりや不穏さを生み出すものとして効果的に機能していたように思います。
このように、ベタな演出とシャマラン監督らしい演出の2つがきちんと共存しているのが、本作の魅力のひとつであり、今までのシャマラン作品では成すことが出来なかった達成点なのではないでしょうか。

このような達成を可能としたのは、製作体制のほかにも本作における「恐怖」という感情の取り扱い方が大きく関係しています。
登場するモンスターが、人間が恐怖を感じた時に発するフェロモンに反応するという設定からも分かるように、『アフターアース』では「恐怖」という感情に強くフォーカスされています。
この恐怖という感情は、シャマラン映画で繰り返し扱われてきた主題です。というか、シャマラン映画では「恐怖を自分の役割や宿命を受け入れたり気づくことによって克服していく」ということがひたすら描かれています。
あの『エアベンダー』でさえ原作のエピソードを切って貼ってしてこの形に落とし込んでいるので、本当によく1つのパターンでこれだけの映画が作れるなと、その執拗さに感動すら覚えます。

そしてここでの「恐怖」とはただ繰り返し描かれるだけではありません。
『サイン』以降の作品でその描き方として顕著となったのが、恐怖の対象をその作中で脱臼させるような操作です。

シャマラン映画がなぜ批判されるのか、それは主に「ストーリーがむちゃくちゃである」「CGIが貧弱」「本人が出すぎ」の3点に集約されます。では、なぜシャマランはそのようなことをするのか。それは、物語世界を破壊し、映画という存在を明らかにした上でしか表現できないことがあるからです。

たとえば『サイン』では、さまざまな異変をもたらしている家の外の訪問者の姿は、終盤まで明らかになりません。描かれたとしても、テレビなどメディアを通しての姿のみです。
その代わりに、気配や物音、予兆などが効果的に用いられ、劇中の緊張感は高まっていきます。そうして迎えたラストで、ついにその姿が明らかになるわけですが、その瞬間、私たち鑑賞者は一斉にずっこけます。おいおい、なんなんだこれは、悪い冗談か、と。
つまり、それまで実態が描かれずとも恐怖の対象として機能していたものが、その姿が明らかになった瞬間に効力を失うわけです。
それにも関わらず、登場人物は真剣に恐ろしいものとしてそれに対峙しているので、一度冷めた視線を獲得してしまった鑑賞者からはとてつもなく滑稽な行為にしか見えませんし、それ以降の流れも、なにを言っているんだこいつはという風にしか見えません。
しかしこのことによって、他者からはそのように滑稽に見えるものでも、当人にとっては苦しみからの解放だったり救いをもたらすこともあるのだという事がここでは表現されています。

このように、シャマラン映画における破綻とは必然性を伴ったものでした。

しかし、きっちりハリウッド映画の体裁にしなければいけないと仮定したとき、今までのような飛び道具的なやり方で恐怖やその対象を脱臼させることはできません。
そこで本作では、恐怖という感情が徹底的に相対化して描くというやり方がとられています。
まず、レイジは恐怖心を抱かない「ゴースト」という状態を獲得したことで、モンスターに対抗できる英雄として扱われています。
そのため、死が間近に迫っている状態でも冷静な状態を保っているのですが、その一方でキタイは作中の大半の時間、何かに怯えていて、これをジェイデン君の過剰な怖がり演技が更に強調しています。

このほかにも、“Danger is very real, but fear is a choise”というセリフが宣伝用のキャッチコピーにもなっているんですが、


このセリフをことさら強調することで、ここでも恐怖という感情を抱くことがまるでおかしなことであるのかのように印象づけられています。

以上のような操作によって『アフターアース』では物語世界を破綻させる必要がなくなり、(一応)無事にこの規模感の映画を撮りきることができたわけですが、やはりどこか退屈さや温度の低さというものがあるのを否めません。
それは今作におけるシャマラン監督の執着心が、自己の再生産とも言えるような内向きのものになってしまったからのような気がします。
やはりどうしてもファンとしては、過去作で見せていた「救いを描くこと」に対してのような大言壮語的な執着心をまた見せてほしいと思ってしまうんですが、それを映画を破綻させずに、あるいは破綻させても多くの人が許容出来るように描くのは大変難しいことなのでしょう。
しかし、それでもシャマランならきっとなんとかしてくれると信じていますし、それこそ過大といえるほどに期待しています。


伊藤計劃がその『ヴィレッジ』評において、シャマランのことを「インド人の天然のおっさん」と言っていたように、この監督はどこまでが狙ってやっていることなのか、そうじゃないのか非常に分かりにくい部分があります。
製作体制のこともあり、本作に関してもどこまで意図していたのかは正直測りかねるんですが、結果として、現段階におけるいい意味でのシャマランらしさも悪い意味でのシャマランらしさも、すべてが明らかな状態で凝縮された、総集編的な形の作品となってしまったのは事実です。
このことは(ものすごくポジティブな見方をすれば)今までの諸々についてケリがついたと言うこともできるんではないでしょうか。
しかも、本人のツイートによるとシャマラン監督はアフターアース公開直後から「アフターアースのケータリングくらいの予算の映画」の執筆に取り掛かっているようで、

これは全世界のシャマランファンにとって吉報と言えるものだと思います。
その作品がそもそもプロジェクトとして実際に動いている状態にあるのか、どのような作品になるのか、現段階では謎ではあるんですが、この作品がシャマラン監督の新たに輝かしいキャリアの鏑矢となることを願ってやみません。

そして最後に、M・ナイト・シャマラン監督、43歳のお誕生日おめでとうございます。
本の出版や複数のテレビ仕事でお忙しくなることとは思いますが、お体に気をつけて、そしてもう二度と「誕プレの代わりに映画の企画くれ」とか言わないでくださいよろしくお願いします。